昭和五十七年二月十四日 朝の御理解

x 御理解第四十二節 「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」


 朝、目覚ましのおかげを頂くのが有難い、というだけではなくて、私の場合はそれに何か嬉しい、そんなものがあるんです。お手洗いにやらせて頂く事がまた有難い。冷たい水で頭からジャブジャブ、こう頭洗わせて頂く時、何とも言い知れぬ有難さに喜ばしさがとものうた、と言うでしょうか、表現の仕様がないですけども、これは私の日々の実感ですから。あ、たまにはたまには、て言うか、あのうふつう冷たい水で頭を洗う時には何かお湯を使ったらよかろうという気がするんですけど、朝だけはそうじゃないです。朝は冷たい水でジャブジャブと洗う時に、もう本当にそれが嬉しいです、ね。もう脳天に芯から冷たい水が染み込んでいくような気がして有難いです。
 今こうあの、咳が出ますけども咳が出る、という事も苦しい、という事じゃないですねえ、有難い。勿論ある方が咳にキンカンの砂糖煮がいいから、といって食べて、それがおいしんです。もう咳の出るたんびんにそれを頂く、という事が嬉しいやら楽しいやら有難いやら、といううような感じがするんです。だから咳の出る事もやっぱりまた有難い。本当にまあ有難いものになってきたもんだ、とこれは毎朝実感なんですけれどもね。目覚ましのおかげを頂いて自分の身の整理をする。休ませて頂いた寝床の整理をさしてもらう、その一事一事が何か有難い、だけではない。
 今日私ははっきりその辺の所を、はあ私はこれは有難い、だけではなくて嬉しいなあ、というような実感をさせて頂いた事でございますけれども、皆さんも日々がこんなに有難う嬉しう目覚ましのおかげを受けられたら、一日が素晴らしい一日になるだろうなあといったような事を、今日はしきりに思いました。そしてまあ今日の御理解頂いて、これはまあだ信心が足りんのだ、という事なんですけれど、たとえどうであっても信心が貫かれておる、という事。そこからの信心、そこからおかげが受けられる、とおっしゃるのはそこで、ま、勿論ひときばりする、といったようなものではなくて、兎に角やっぱり信心が有難いから続けるのだ、と、おかげを受けなければならんから、まあひと頑張りしょう、といったようなものでなくて、本当に信心が例えば思うようにならなくても、願いが成就しなくても、ね。
 どうしてこんなにいつまでおかげが受けられんだろうか、といったような思いなんか全然起こって来ないです。信心が有難い、という事になると。信心が有難い、という事は今申すように、目覚ましのおかげを頂いた事が有難い事から始まる。これをまあ煎じ詰めると目覚ましのおかげを頂いた、という事はお生かしのおかげを頂いとるんだなあ、今日も、という事でしょうか、兎に角有難い、有難いだけではない、嬉しい。まだ今日どういう事に出合うかもわからないけれども、出合う事一事一事が神願成就の為の働きである、といったような事。まあ理屈じゃないけれども、そんなふうなものがこの心に頂ききっておるのじゃないでしょうか。
 昨日、十三日会、最後に久富繁雄さんが発表なさっておられましたが、今度七十一才の誕生の御礼の時に親先生から色紙を書いて頂いた、というその話をなさっておられました。その事の、意味の深いの、そのあとからまた色々考えて、この中には非常に思いの深い事があるなあ、と。松の緑に梅にも春な、と例えば歌い出しがそういうふう、ですね。私あのう、松の緑という事は合楽の繁盛というふうに昨日繁雄さんの説明を聞きながら思うたんですけどもね。松の身と競りの、というのは合楽教会の発展繁盛である。梅にも春のという所を信心辛抱という事だそうです、というふうに説明されたけれども、それは信心辛抱しぬかれたから、いうなら春が訪れておるというのが今の久富一家という事じゃないか、という事です。信心辛抱頂き抜かれたから、まあだ信心辛抱せにゃならん、というのじゃなくてです。信心辛抱されたから梅にも春の、という事になったんだ、と、ね。
 ですから、今の繁雄さんに毎朝例えばお参りなさる。また、毎日私の御用して下さる事が、あ、今日もまた辛抱せなならん、といったようなものじゃない、と思うんです。もう本当に梅にも春の、というような、今日私が皆さんに聞いて頂いてる。兎に角目覚ましのおかげを頂いた事が有難いです。そして嬉しいです。冷たい水で頭をジャブジャブ洗う事が有難い、だけではなくて、もうそれこそ名状しがたいような何か嬉しいような心が弾んでくるようなものを感じるのです。
 繁雄さんの信心にもやっぱそんなものがあるのじゃないでしょうか。まあだ、こう七十一にもなってから朝参りをせゃん、七十一にもなってまた親先生の御用をせにゃならん、といったようなものではなくて、そこに言葉でそれを分析するとです、ね。やっぱり有難いやら嬉しいやらというようなものがあるのじゃなかろうか、と私は、その梅にも春の、という所を聞きながら思ったんです。もう辛抱じゃないです。その辛抱、今迄は辛抱であったろうけれども、辛抱しぬいた事がもう有難いものになって、そこに梅にも春の訪れがあっておる。ね。
 おかげの世界に住んでおられる、ね。成程竹に雀の、という所が出けてくるんですけども、これは、ま、繁雄さんの信心を竹のような信心、と言われますから、ね。ま、竹に雀はつきものですから、ね。しかもそれが雀百まで踊りを忘れず、というように七十一、になろうが七十二になろうが八十になろうが、ね。私が生きておる限り親先生が生きておられる限り、この御用だけは頂き抜こう、というひとつの決心のようなもの、生涯をそこにかけておられる、という事、に私は雀百まで踊りを忘れず、というような所があるのじゃないか。
 それがいうならば、ま、嬉々として、というよりも有難いだけではなくて何とはなしに心弾む嬉しさ、ね。そういうようなものの信心が、です、ね。松に緑、いわゆる合楽が発展していくの、と同時に久富家もまた発展していく、という感じなんです。松に緑に梅にも春の、梅にも春のといゃあ久富家の繁栄であろう、お父さんの信心辛抱し抜かれたのがもう信心、辛抱じゃない、もうあるのは信心だけなんだ。しかもその、梅にも春の、というその、まあ素晴らしい、ね、まあ、有難さ、というものが、ね、あって日々が有難いのである、楽しいのである、という事になるのです。ね。
 問題はだから信心なんです。しかもです。これは私がなら手足の動く限りね、この御結界の御用だけはさせて頂こう、と決心しておるように、久富さんの場合も手足も動く限り親先生の御用だけは、この日参だけは続けよう、それは百になってもこの踊りだけは忘れんぞ、というようなものがある、のではないか。それは、ね。今日私が実感しておる、いわば有難いやら嬉しいやら、それは咳が出ても嬉しい。そこにキンカンの砂糖煮がある事はもっと嬉しい。そういう例えばおかげの方が寄り添うてくるおかげを頂き続けていけれる、という事は、ね。
 これはまあだ信心が足りんからだ、といったような歯を食いしばったものではなくて、ね。信心そのものが有難い、という事にならんと、ね。咳が出ても嬉しい、有難いという楽しいという、そういう信心をまずは身につける事が大事、ね。これはまあだ信心が足りんのだ、というのはまあだ、自分には信心を頂く、という事の楽しさがない。只おかげを頂かなんから頑張っとる、といったような事では駄目だと。
 いよいよ信心に目覚めさしてもらい、いよいよ信心を頂く事の喜びを感じさせて頂く事の信心に切り替えていく、というような生き方をね。やっぱし願わなければいけない。しかもその願いが、もういくつになったら朝参りはせんでよかじゃろか、といったようなもんでなくて、ね。もうそれこそ雀百まで踊りを忘れん。そういう楽しさ、喜ばしさというものが根底にあってそういう、どんな場合であっても有難い、喜ばしい、という心が開けてくるんだ、というふうに思います。
 皆さん、松の緑と梅にも春の、というならば合楽教会がいよいよ発展していくのと一緒に自分の家も、いうならば梅にも春のおかげを頂かしてもらい、ね。生涯かけての信心修行を願わして頂いての事でありましたら、ね。これは信心が足りんから頑張らな、といったような、その頑張り的なものではなくて、ね。楽しうそこをやり抜けていけれる手立てを先に身につける。それはどこまでもおかげを頂く、という事と同時にです。ね。信心がその事を通してわかる事の有難さ、喜ばしさがまず先だと思うですね。どうぞ